うたごえ運動の歴史
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うたごえ運動のはじまり
戦後の民衆の平和と民主主義、しあわせを求める要求や行動、たたかいが大きくたちあがる中で、1948年2月10日、関鑑子の指導のもとに中央合唱団が創立したことを出発点として、うたごえ運動ははじまりました。
うたごえ運動は、美しい日本民族のうた、世界諸国民の平和のうた、人々の生活とたたかいを3つの創造の源泉として活動してきました。また、「みんなうたう会」をはじめさまざまな場での普及活動、うたごえサークルをつくることを基本とする組織活動も明確にして精力的にひろめてきました。世界7カ国語でうたいひろめられた「原爆許すまじ」は、うたごえ運動が世界に向けて広がる大きな力になりました。60年安保条約反対、働くもののたたかいと連帯がひとつになり国中にひろがり、以来うたいつがれている「がんばろう」のうた。沖縄返還闘争の中での「沖縄を返せ」のうた。このようにうたごえ運動は、一貫して平和運動や労働運動と結びつきながら全国にひろがり、国民的な音楽運動として内外の注目を集めるものに発展しました。そして60年の三池 安保大闘争の中での活動を大きな飛躍として、60年代半ばにはその規模は最大のもの(日本のうたごえ祭典に5万人)となり、運動20周年(1968年)には歌劇「沖縄」の制作 上演運動を起こすまでに至りました。 -
歌劇「沖縄」からひろがった70年代
1970年と72年に、沖縄返還の国民的悲願をテーマにした歌劇「沖縄」は全国で60ステージ10数万人を集めて成功し、うたごえ20年の頂点をつくる運動になりました。同時に、現実の国民的音楽状況とその要求の変化に対応するための努力が行われ、70年代の運動へとひきつがれていきました。
70年代に入ると、合唱劇、ミュージカル、大合唱曲、器楽曲などの大型の作品が運動内からうみだされてくるようになり、同時に、大衆的な生活とたたかいのうたが次々と創られ、多くの書き手と作り手が育ってきました。
こうした最中、73年5月、メーデー壇上で指揮者、関鑑子は60万の労働者の「世界をつなげ花の輪に」の大合唱に看取られながら他界しました。
70年代には、革新自治体がつぎつぎと生まれていき、ベトナムがアメリカに勝利するという中で、それらのたたかいと結びつきながらうたごえ運動はすすんでいきました。 -
裾野をひろげてきた80年代、90年代
80年代に入り、反核 平和の草の根運動と呼応し、「反核日本の音楽家たち」と連携し、年間200カ所以上の反核 平和コンサートを開催しています。
また、戦争の悲惨さを告発し、平和への願いを躍動的な子どもの声に乗せてうたいあげた、合唱構成「ぞうれっしゃがやってきた」は86年の初演以来20年間歌いつがれ、そこにうたって参加する人は10万人をこえ、観客は100万人を越えるまでに至っています。
そして現在、平和を求める運動と結びあいながら、女性、障害者 福祉、青年、労働者、教育、市民運動など、国民のあらゆる要求にこたえる運動として歴史をつみあげさらに発展させようとしています。
21世紀を迎えた今、「核も基地もない21世紀に、自由と平和のうたごえを大きく響かせよう」を合言葉に、60周を迎える運動にとりくんでいます。
ひとりひとりのいのちが輝き、音楽が豊かに広がり生きる力になっていく、核兵器のない21世紀をめざし豊かな文化の力が世界の人びとの連帯の絆になるような、うたごえの未来をめざしたいと願っています。