「グレート・ラブ 関鑑子の生涯」を書いた

昨年11月27日から約半年ぶりでブログ再開。

そう、半年前のこのあたりから寝ても覚めても鑑子様の日々が始まった。
「さあ、アキコちゃん、きょうも行きますか」と、うたごえ新聞編集の合間に会う。しかし、しかし、あまりに大きな人を前に、途方に暮れ、時に逃げ出したくなったが、時は矢のように過ぎ、とうとう年末年始も格闘となった「グレート・ラブ 関鑑子の生涯」の執筆だった。
井の中の蛙  仰天の日々
音楽センターの道田隆司社長(うたごえ65周年記念事業出版委員)から、「関鑑子先生没40年に、後世の人たちに伝える先生の足跡をまとめてみないか。これまで出ている先生に関する文献を編むという形で」と話をもらったのはもういつだったか、忘れた。昨年夏の終わり頃だったか。
その時、そんな大きなこと私には…、と言わない私。これまで、うたごえ新聞の仕事で折に触れて、実物にはお会いできなかったが、関鑑子さんについて取材もしてきたのだから、それはうたごえ新聞に長年勤めている私の役目かもしれないし、そういう大きな仕事に、果然やる気が出る私は、「おもしろそう」と引き受けた。
どっさりある資料、これまでにも読んでいたものはあったが、読む視点が違うと、こんなことが書いてあったのか、と「発見」の続出。
やがて出版社が決まり、担当編集者Kさんと打ち合わせ。Kさんは前作「世界をつなぐ歌『ねがい』」の担当者。この出版の話も、道田社長でした(深く感謝)。
Kさんは、なかなか鋭い、かつ、文言、捉え方の指摘が、厳しい。いや、的確。「今回もよろしく、おねがいします」とスタート。
そのあとすぐに、編むのではなく、評伝として書き下ろす形の方が読まれる。その方向で構成(プロット)をまとめるように言われた。実はその方が自分のなかで見えてくると、これも不遜ながら、引き受けた。
それからが大変。読めば読むほど調べれば調べるほど、関鑑子さんはスケール大きな人、そして大きな仕事をされた…。時間がない。能力も。井の中の蛙は仰天の日々。
書く骨が折れる前に首が…
9月中頃だったか、プロット作成のために、あらためて土日を使った2日で資料を再度通読した。日曜の夕刻あたりから、首がなんだか痛い。そして月曜日の朝、頭を垂れた「すみません」の姿勢から頭があげられない。首を曲げたままの姿勢でバスに乗り、出社。パソコンには向かえるけれど、人と話す時も頭は垂れたまま上がらない。
全国協事務局御用達の「整体」に走り、生まれて初めて針を打った。針は「必殺仕事人」のあのイメージで、これまでとても怖くてノーサンキューだったが、そんなことは言っていられない。頭が上がるまで首はギブス。本人以上にまわりが驚く痛々しい姿が一週間続いた。思えばその後半年間の苦難を暗示していた。
草創期のみなさんの
関先生を語るほとばしり出る言葉
秋が深まった頃、タイトルとプロット、書き出しを提出。それを見て、K編集者や道田さんらの、「いいよ、楽しみだよ」「ここまで来たら大丈夫」に載せられつつも、内心は怖い。プロット通り、書けるかしら。
けれど、そう言ってもらえたプロットが出せたのは、関鑑子その人の業績が私によくわかるように伝えてもらったこと、関鑑子さんを語る人たちの話、30年うたごえ新聞編集のなかで運動の幹というものと向き合ってきたことが大きい。
今はもうお話ができないが、関鑑子さんとうたごえ運動を始めた、中央合唱団一期生の奈良恒子さんには、私がうたごえ新聞社に入った時から折に触れて、いろいろ関鑑子さんのことを聞かせてもらった。17歳でうたごえ運動に参加した奈良さんは、情熱的に先生の理想、教え、草創期の北海道オルグ、モスクワでの世界青年学生祭典でのことなどを話してもらっていた。
ずっと全国協議会で一緒だった高橋正志前会長は、世界的な声楽家の演奏やオペラを聴かせ、音楽教育にも勢力的だった関先生の運動論を聞いていた。
その上に今回執筆に当たって大きかったのは、うたごえ運動草創期から現在も現役で活動されている檀上さわえさん、堀喜美代さん、渡辺昌子さん、柴田泰子さんらに3回に渡って座談会をもらいてもらったこと。
みなさんからほとばしり出る関先生を語る言葉、60余年前の一コマ一コマをまるで昨日のことのように話される。関先生の厳しいレッスンがなんのためにあったのかを、一人ひとり、しっかり心にしみて感じておられる。
第四章「国民音楽の創造 鑑子と『うたごえ』がめざしたこと」は、最初の案では「うたごえの種まいた草創期の人々」にしていた。実は、そこに、関鑑子が目指したうたごえ運動とそれを実践していった草創期の人たちの営みが、私にあらためてうたごえ運動とは、伝えた。詳しくはこの章に。
「グレート・ラブ 関鑑子」の
タイトルは
草創期のみなさんの師への尊敬、その源は、グレート・ラブ。それは、関鑑子追想集「大きな紅ばら」の関鑑子自伝の中に出てくる、鑑子の師ハンカ・ペッッオルト夫人の教えでもあった。音楽、芸術の源は大きな人類愛であるとの教えたペッッオルトの教えに、鑑子は深く影響を受けたのを感じた。音楽はなんのために…、タイトルは迷わず「グレート・ラブ 関鑑子の生涯」とした。
興味深いうたごえ運動前野のこと
創立直後の財政のこと
そして今回、運動史からも一つ、提出できたと思うのは、うたごえ運動創立前夜のこと。これはひとえに、関鑑子さんの娘で声楽家の小野光子先生の力である。小野先生が、関鑑子生誕100年の時、「うたごえ運動が誕生していった背景・創立前夜のこと、直後のことをきちんと記しておくことも必要ではないか」と座談会を提案された。先生の尽力で、うたごえ運動創立前夜を語る土方与平、近江幸正両氏に2回、草創期、中央合唱団の財政を担当した磯常男、柴田慎一両氏に1回の座談会は、季刊「日本のうたごえ」誌で紹介した。
この座談会は私自身、とても興味深く聞いていたので、今回の中にいかそうと思った。その後、土方、近江両氏とも亡くなり、貴重な証言ある。
除夜の鐘を聞きながら
話を聞けば聞くほど、資料を読めば読むほど、興味は尽きない。プロットは出したものの、肉付けは感嘆ではない。一つ一つの事象、知らない世界でもあり、一行書いては原本と照合、その繰り返し。編集者のKさんは、正月明けに第一稿提出と言う。四月末の発行に、それはサバを読んで、と思いつつ、年が明ければまた書く時間はなかなかとれない。暮れと正月の実家帰りは資料持参となった。いつもは酔いしれる私も、今回ばかりはお酒もそこそこに、除夜の鐘を聞きながら書いていたのは、後で思えばぞっとするほんの最初の方だった。
結局、実家では落ち着かず、早々に東京に戻り、書く。
正月明けからは、ほとんど心ここにあらず。少し進んでは書けなくなる…。かつ、書いてもまだ1950年代…、いつ終わりが来るのだろう…かと。
そんな時、昼食の女子会での音楽センターのMさんの一言「必ず終わりは来るのですよ」、がその頃の私のカンフル剤だった。
第一稿提出、実はそこからが
格闘の日々
正月明け原稿提出は、執行猶予がついて一月下旬。第一稿を編集者Kさんに渡す。実はそれからが大変だったのだ。
これはどういうこと? この裏付けは? といくつもの付箋。これは面白いぞ!と書いたところが「これは要らないですね」とバッサリ。「でもあのその…」と私。「いや、なくていいです」と編集者氏。私、シュン。
「これも要らないんじゃないですか」とまた一つ二つと出てくる。「いや、これは要るんです」と死守したひとつに、アンナ・パブロアに外国の演奏先で助けられた話。そういえば、鑑子は東京音楽学校を首席で卒業している。その部分も削除されている。なぜ? と編集者に追求する余裕もないほど、?マークへの解答に追われた。「この表現は、うたごえ運動をやっている人しかわからん」と言われたり…。うたごえ新聞を作っていて、いわゆるうたごえ用語は使わないことに気をつけていたけれど、目が違うとやはり…。
一応、原稿を書き終えて次は推敲・校正。これがまた。前回の本「ねがい」の時とは今回は違った。校正は、私と編集者K氏に、音楽の専門家、文章の専門家も入り、その間に再度原稿見直し。何度も資料を見直しているうち、とうとう資料の一冊はボロボロになった。(なのに誤字が(^^;))
そうこうして第二稿を出して、全国総会へ。全国総会で「期待してるよ」との励ましのことばに、身が縮む想いのこの頃。
「子ども、300人 来たよ!」
「これで責了」と編集者K氏のことばを聞いたのは三月下旬。やっと解放!という気分にはなれない。とんだ事実誤認があったら…。
書き上げた原稿を、小野先生に持って行くと「見ないわ、あとから間違い集を出すから」と笑いながら言われたが、ドキドキ。
そして、4月13日、正式出版は関鑑子さんの命日5月2日だが、「関鑑子没40年記念のつどい」が開かれる前日につどい用に300冊が音楽センターに届いた。外出から戻ると音楽センターのAさんが私に「子ども、300人、来たよ!」。そう、この本は私の子ども!
「関鑑子没40年記念のつどい」でも私はこう言った。
「関先生と活動を共にされた方々にはきっと足りない部分もいっぱいあると思います。未熟な私が生み出したこの本は私の子ども、みなさんの話も補っていただいて子どもを育てていってください」。
小野先生からの
うれしい電話とはがき
病後で「つどい」には出席されなかった小野先生のところに、道田社長と「つどい」の報告と本を持ってうかがった。小野先生はつどいが盛会だったこと、本が出たことを喜んでくださった。
でも、これから、読まれた後どんな反応か…、とまだまだ、緊張はつづく。
数時間して小野先生から、「途中まで読んだわ。とてもいいわよ。まず、それを伝えようと思って」とうれしい電話に、やっとほんとうに少し、安堵。
そして、その後、小野先生から2度のはがきや電話をもらう。
「何度も読み、涙を流している。私の知らない母も知った」とあり、やっと安堵している。これから子育てに本腰を入れなきゃ!

20130414グレートラブ そう、半年前のこのあたりから寝ても覚めても鑑子様の日々が始まった。

「さあ、アキコちゃん、きょうも行きますか」と、うたごえ新聞編集の合間に会う。しかし、しかし、あまりに大きな人を前に、途方に暮れ、時に逃げ出したくなったが、時は矢のように過ぎ、とうとう年末年始も格闘となった「グレート・ラブ 関鑑子の生涯」の執筆だった。

井の中の蛙  仰天の日々

音楽センターの道田隆司社長(うたごえ65周年記念事業出版委員)から、「関鑑子先生没40年に、後世の人たちに伝える先生の足跡をまとめてみないか。これまで出ている先生に関する文献を編むという形で」と話をもらったのはもういつだったか、忘れた。昨年夏の終わり頃だったか。

その時、そんな大きなこと私には…、と言わない私。これまで、うたごえ新聞の仕事で折に触れて、実物にはお会いできなかったが、関鑑子さんについて取材もしてきたのだから、それはうたごえ新聞に長年勤めている私の役目かもしれないし、そういう大きな仕事に、果然やる気が出る私は、「おもしろそう」と引き受けた。

どっさりある資料、これまでにも読んでいたものはあったが、読む視点が違うと、こんなことが書いてあったのか、と「発見」の続出。

やがて出版社が決まり、担当編集者Kさんと打ち合わせ。Kさんは前作「世界をつなぐ歌『ねがい』」の担当者。この出版の話も、道田社長でした(深く感謝)。

Kさんは、なかなか鋭い、かつ、文言、捉え方の指摘が、厳しい。いや、的確。「今回もよろしく、おねがいします」とスタート。

そのあとすぐに、編むのではなく、評伝として書き下ろす形の方が読まれる。その方向で構成(プロット)をまとめるように言われた。実はその方が自分のなかで見えてくると、これも不遜ながら、引き受けた。

それからが大変。読めば読むほど調べれば調べるほど、関鑑子さんはスケール大きな人、そして大きな仕事をされた…。時間がない。能力も。井の中の蛙は仰天の日々。

書く骨が折れる前に首が…

9月中頃だったか、プロット作成のために、あらためて土日を使った2日で資料を再度通読した。日曜の夕刻あたりから、首がなんだか痛い。そして月曜日の朝、頭を垂れた「すみません」の姿勢から頭があげられない。首を曲げたままの姿勢でバスに乗り、出社。パソコンには向かえるけれど、人と話す時も頭は垂れたまま上がらない。

全国協事務局御用達の「整体」に走り、生まれて初めて針を打った。針は「必殺仕事人」のあのイメージで、これまでとても怖くてノーサンキューだったが、そんなことは言っていられない。頭が上がるまで首はギブス。本人以上にまわりが驚く痛々しい姿が一週間続いた。思えばその後半年間の苦難を暗示していた。

草創期のみなさんの関先生を語るほとばしり出る言葉

20130414関鑑子のつどい中央合唱団 秋が深まった頃、タイトルとプロット、書き出しを提出。それを見て、K編集者や道田さんらの、「いいよ、楽しみだよ」「ここまで来たら大丈夫」に載せられつつも、内心は怖い。プロット通り、書けるかしら。

けれど、そう言ってもらえたプロットが出せたのは、関鑑子その人の業績が私によくわかるように伝えてもらったこと、関鑑子さんを語る人たちの話、30年うたごえ新聞編集のなかで運動の幹というものと向き合ってきたことが大きい。

今はもうお話ができないが、関鑑子さんとうたごえ運動を始めた、中央合唱団一期生の奈良恒子さんには、私がうたごえ新聞社に入った時から折に触れて、いろいろ関鑑子さんのことを聞かせてもらった。17歳でうたごえ運動に参加した奈良さんは、情熱的に先生の理想、教え、草創期の北海道オルグ、モスクワでの世界青年学生祭典でのことなどを話してもらっていた。

ずっと全国協議会で一緒だった高橋正志前会長は、世界的な声楽家の演奏やオペラを聴かせ、音楽教育にも勢力的だった関先生の運動論を聞いていた。

その上に今回執筆に当たって大きかったのは、うたごえ運動草創期から現在も現役で活動されている檀上さわえさん、堀喜美代さん、渡辺昌子さん、柴田泰子さんらに3回に渡って座談会をもらいてもらったこと。

みなさんからほとばしり出る関先生を語る言葉、60余年前の一コマ一コマをまるで昨日のことのように話される。関先生の厳しいレッスンがなんのためにあったのかを、一人ひとり、しっかり心にしみて感じておられる。

第四章「国民音楽の創造 鑑子と『うたごえ』がめざしたこと」は、最初の案では「うたごえの種まいた草創期の人々」にしていた。実は、そこに、関鑑子が目指したうたごえ運動とそれを実践していった草創期の人たちの営みが、私にあらためてうたごえ運動とは、伝えた。詳しくはこの章に。

「グレート・ラブ 関鑑子」のタイトルは

草創期のみなさんの師への尊敬、その源は、グレート・ラブ。それは、関鑑子追想集「大きな紅ばら」の関鑑子自伝の中に出てくる、鑑子の師ハンカ・ペッッオルト夫人の教えでもあった。音楽、芸術の源は大きな人類愛であるとの教えたペッッオルトの教えに、鑑子は深く影響を受けたのを感じた。音楽はなんのために…、タイトルは迷わず「グレート・ラブ 関鑑子の生涯」とした。

興味深いうたごえ運動前野のこと、創立直後の財政のこと

そして今回、運動史からも一つ、提出できたと思うのは、うたごえ運動創立前夜のこと。これはひとえに、関鑑子さんの娘で声楽家の小野光子先生の力である。小野先生が、関鑑子生誕100年の時、「うたごえ運動が誕生していった背景・創立前夜のこと、直後のことをきちんと記しておくことも必要ではないか」と座談会を提案された。先生の尽力で、うたごえ運動創立前夜を語る土方与平、近江幸正両氏に2回、草創期、中央合唱団の財政を担当した磯常男、柴田慎一両氏に1回の座談会は、季刊「日本のうたごえ」誌で紹介した。

この座談会は私自身、とても興味深く聞いていたので、今回の中にいかそうと思った。その後、土方、近江両氏とも亡くなり、貴重な証言ある。

除夜の鐘を聞きながら

話を聞けば聞くほど、資料を読めば読むほど、興味は尽きない。プロットは出したものの、肉付けは感嘆ではない。一つ一つの事象、知らない世界でもあり、一行書いては原本と照合、その繰り返し。編集者のKさんは、正月明けに第一稿提出と言う。四月末の発行に、それはサバを読んで、と思いつつ、年が明ければまた書く時間はなかなかとれない。暮れと正月の実家帰りは資料持参となった。いつもは酔いしれる私も、今回ばかりはお酒もそこそこに、除夜の鐘を聞きながら書いていたのは、後で思えばぞっとするほんの最初の方だった。

結局、実家では落ち着かず、早々に東京に戻り、書く。

正月明けからは、ほとんど心ここにあらず。少し進んでは書けなくなる…。かつ、書いてもまだ1950年代…、いつ終わりが来るのだろう…かと。

そんな時、昼食の女子会での音楽センターのMさんの一言「必ず終わりは来るのですよ」、がその頃の私のカンフル剤だった。

第一稿提出、実はそこからが 格闘の日々

正月明け原稿提出は、執行猶予がついて一月下旬。第一稿を編集者Kさんに渡す。実はそれからが大変だったのだ。

これはどういうこと? この裏付けは? といくつもの付箋。これは面白いぞ!と書いたところが「これは要らないですね」とバッサリ。「でもあのその…」と私。「いや、なくていいです」と編集者氏。私、シュン。

「これも要らないんじゃないですか」とまた一つ二つと出てくる。「いや、これは要るんです」と死守したひとつに、アンナ・パブロアに外国の演奏先で助けられた話。そういえば、鑑子は東京音楽学校を首席で卒業している。その部分も削除されている。なぜ? と編集者に追求する余裕もないほど、?マークへの解答に追われた。「この表現は、うたごえ運動をやっている人しかわからん」と言われたり…。うたごえ新聞を作っていて、いわゆるうたごえ用語は使わないことに気をつけていたけれど、目が違うとやはり…。

20130414Nishisan

日本のうたごえ全国協議会 西会長と

一応、原稿を書き終えて次は推敲・校正。これがまた。前回の本「ねがい」の時とは今回は違った。校正は、私と編集者K氏に、音楽の専門家、文章の専門家も入り、その間に再度原稿見直し。何度も資料を見直しているうち、とうとう資料の一冊はボロボロになった。(なのに誤字が(^^;))

そうこうして第二稿を出して、全国総会へ。全国総会で「期待してるよ」との励ましのことばに、身が縮む想いのこの頃。

「子ども、300人 来たよ!」

「これで責了」と編集者K氏のことばを聞いたのは三月下旬。やっと解放!という気分にはなれない。とんだ事実誤認があったら…。

書き上げた原稿を、小野先生に持って行くと「見ないわ、あとから間違い集を出すから」と笑いながら言われたが、ドキドキ。

20130414SekiParty そして、4月13日、正式出版は関鑑子さんの命日5月2日だが、「関鑑子没40年記念のつどい」が開かれる前日につどい用に300冊が音楽センターに届いた。外出から戻ると音楽センターのAさんが私に「子ども、300人、来たよ!」。そう、この本は私の子ども!

「関鑑子没40年記念のつどい」でも私はこう言った。

「関先生と活動を共にされた方々にはきっと足りない部分もいっぱいあると思います。未熟な私が生み出したこの本は私の子ども、みなさんの話も補っていただいて子どもを育てていってください」。

小野先生からのうれしい電話とはがき

病後で「つどい」には出席されなかった小野先生のところに、道田社長と「つどい」の報告と本を持ってうかがった。小野先生はつどいが盛会だったこと、本が出たことを喜んでくださった。

でも、これから、読まれた後どんな反応か…、とまだまだ、緊張はつづく。

数時間して小野先生から、「途中まで読んだわ。とてもいいわよ。まず、それを伝えようと思って」とうれしい電話に、やっとほんとうに少し、安堵。

そして、その後、小野先生から2度のはがきや電話をもらう。

「何度も読み、涙を流している。私の知らない母も知った」とあり、やっと安堵している。これから子育てに本腰を入れなきゃ!

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  1. 清水鑑子 より:

    私の両親も中央合唱団の団員でした。私の名前は、鑑子さんに頂いた同じ鑑子です。

  2. 関 鑑子(せき あきこ、1899年9月8日 – 1973年5月2日)。声楽家、音楽教育者、音楽評論家。

    第二次世界大戦後、日本共産党員として同党の文化政策に基づく実践活動を行い、国内外において、日本のうたごえ運動の創始者と見なされるようになった。

    ■ 経歴

    父 関厳二郎(美術評論家。雅号 “関如来”)、母 トヨの長女として、東京都本郷区龍岡町(当時)に生まれる。

    1921年、東京音楽学校本科声楽科卒業。ソプラノ歌手となるが、大正末期からプロレタリア芸術運動に参加。

    1926年、新劇俳優の小野宮吉と結婚。以後、本名は小野鑑子。

    1929年4月26日、プロレタリア音楽家同盟(PM)創立に参加。音楽家同盟は、全日本無産者芸術団体協議会に加盟。

    1934年3月、プロレタリア音楽家同盟、解散声明を発表。

    1946年5月1日、第17回メーデー(東京・宮城前広場)で、「赤旗の歌」「インターナショナル」を指揮。その経験から、うたごえ運動の構想を抱きはじめる。

    1948年2月10日、日本共産党の方針に従い、日本青年共産同盟中央合唱団を創立。

    1951年、音楽センターの主宰者となり、この頃から「うたごえ運動」の実践活動を本格的に展開。運動は、職場・学園・居住地域における合唱サークル組織を通じた、労働者階級の政治・平和運動として発展した。1954年(昭和29年)には、参加者3万人規模での「日本のうたごえ祭典」を実現するにいたった。

    1955年12月9日、スターリン平和賞受賞が決定。

    1956年5月31日、スターリン平和賞授与式(モスクワ、クレムリン、閣僚会議館[現 ロシア連邦大統領官邸]にて)。D.V. スコベリツィン[Дмитрий Владимирович Скобельцын]同賞選考委員会議長より記念メダルを贈呈。関は答辞として、「この光栄ある受賞は私個人でなく、平和を愛する日本人全体に与えられたものです。日本人は平和な、明るい歌を好む国民であります。10年前に始めたうたごえ運動は、日本中のあらゆる職場、農村、学校、家庭に広がっています」と述べ、合唱曲「東京-モスクワ」(小林はじめ作詞、藤本洋作曲)の日本語歌詞を朗読した。授与式に同席した日本の著名人は、村松梢風、石川達三、淡徳三郎、杉村春子、岡田嘉子、芥川也寸志、木下恵介、松岡洋子、片山やす(片山潜の娘)、小野光子(関鑑子の娘・声楽家)など。

    1973年5月1日、第44回中央メーデー(代々木公園)で、参加者約50万人の全員合唱「世界をつなげ花の輪に」(箕作秋吉作曲)を指揮。その直後に壇上で倒れ、虎の門病院に入院。翌2日14時20分、くも膜下出血のため死去。

    1973年5月4日、東京都新宿区の音楽センターにて告別式。参列者は、日本共産党中央委員会から蔵原惟人(常任幹部会委員)、春日正一、紺野与次郎(幹部会委員)、須藤五郎(中央委員)、山下文男(文化部長)ほか多数。著名人では、山根銀二、清瀬保二、外山雄三、中沢桂、井上頼豊、千田是也、村山知義、宇野重吉、南原繁、井口基成、久板栄二郎、松田解子、松本正雄、風早八十二など。中央合唱団の渡辺一利団長は弔辞の中で、この日から同団を「関鑑子記念・中央合唱団」と改称すると発表した。

    1973年5月23日、神田共立講堂にて「音楽葬」。葬儀委員長は太田薫。参列者は、紺野与次郎、須藤五郎、河原崎國太郎、村山知義、櫛田ふき、オレグ・アレクサンドル・トロヤノフスキー(駐日ソ連大使)などを含めて約1500名。新星日本交響楽団、アルトゥール・エイゼン、「関鑑子記念・中央合唱団」のほか、複数の楽器奏者や声楽家が演奏。参列者による追悼演奏として、故人が最後に指揮した曲である「世界をつなげ花の輪に」の全員合唱が行われた。

    ■ 日本のうたごえ実行委員長としての海外渡航歴

    1955年2月~9月、ドイツ民主共和国、ソビエト連邦、中華人民共和国、オーストリア、ポーランド(ワルシャワ「世界青年学生祭典」に出席)
    1956年5月~9月、ソビエト連邦(スターリン平和賞授与式に出席)
    1962年7月~8月、ソビエト連邦(モスクワ「全面軍縮と平和のための世界大会」に出席)
    1964年5月~6月、ソビエト連邦(日本のうたごえ合唱団ソ連ツアー公演、連邦各地で23回開催)
    1962年4月~5月、ソビエト連邦(第2回 チャイコフスキー国際コンクール来賓)
    1966年6月~7月、ソビエト連邦(第3回 チャイコフスキー国際コンクール、当年度に新設された声楽部門の審査員)
    1970年6月~7月、ソビエト連邦(第4回 チャイコフスキー国際コンクール、声楽部門審査員)

    ■ 日本共産党中央委員会主催事業での任務遂行
     
    1972年7月12日、日本共産党創立50周年記念「党を主題とする歌」入選曲、相馬公信 作曲「ひとすじの道」レコード録音(世田谷区民会館)。中央合唱団の録音演奏を指揮。
    1972年7月18日、「日本共産党創立50周年祝賀中央集会」(渋谷公会堂)において、中央合唱団、新日本ポップス・オーケストラによる「ひとすじの道」の演奏を指揮。

    ■ 座右銘
     
    ・艱難汝を玉にす

    「大昔からの言いつたえとか格言とかは中々妙味があります。全然反対の事を言ってる場合もありますが、いつも感心しています。何しろわが家は武家で、祖父は槍術をもって藩主につかえ、父は漢学者ですから、日頃ききなれていたということもありましょう。「艱難汝を玉にす」なぞ自分の修行時代の座右の格言でした。今日でもいろいろ困難にぶつかる度に浮かんでくる言葉ですが、泰然と事に処すためには何事も経験であり、しかも経験慣れしないで、己を持すにはいつも新たな心がまえで、日々これ新た、と幼な児のように真剣に見きわめています」(関鑑子 1971年)

    ■ エピソード

    宮本百合子は1921年10月7日、東京都内の演奏会で関鑑子の独唱を聴き、翌日の日記に、「まだまだ。それをはっきりあの人に云い、もっともっと努力、ほんとうに自分のものを見出すだけの努力をさせないのは気の毒だと思う。まるでペツォールドの小さいひな型だ」と記している。ハンカ・シェルデルップ・ペツォルト(Hanka Schjelderup Petzold)はノルウェーの声楽家で、関が師事した東京音楽学校の教員。

    1926年末、関は音楽会のアンコール曲として、「赤旗の歌」を警察の事前許可なしに演奏したため、警視庁での取り調べを受けた。その際に、同庁の「外事掛長」が発した言葉を、関は次のように記している。
    「あなたのような一流の音楽家には美しい歌や曲が沢山あるはずだ。なにも書生に担がれてつまらぬ物を歌わんでもええじゃろうに。俺も二三度、あなたの歌われるのを聴いて感心しとったもんだが、どうも人というものは解らないものだ。あなたがそんな人とは思わなかった。今後改めれば良し、もし改めなければ、自分はあなたが音楽家として再びステージに立っていけんようにする。自分らとしては、そういうことも出来るのだし。とにかく今のところ、自分はあなたを共産主義者として見ているから、そう思いなさい」

    1956年1月11日、関鑑子は東京・銀座のレストランで美空ひばりと対談し、「日本的な情緒の豊かな美空ひばりさんの歌がとても好きになった」との旨を語った。

    作曲家 芥川也寸志は、モスクワでショスタコーヴィチに出会った際に、「運転手になりたいのか」と訊かれて驚いた。芥川はかつて、自分が関鑑子に「ショスタコビッチの運転手をやってもいいから彼のところで勉強したい」と打ち明けた。それをショスタコーヴィチ本人が、関から聞いてすでに知っていたのだと、芥川に話してくれたという。

    ■ 著述

    『苦い涙の試練を越えて』(講談社、月刊「婦人倶楽部」1924年1月号所載)
    『地声を朗らかに感じよくするには』(同上、1926年5月号所載)
    『実際にあった会話』(「文芸戦線」1927年1月号所載)
    『懐かしき母校の想い出-恩師を偲びて』(「婦人倶楽部」1927年4月号所載)
    『結婚当時意外に感じたこと・嬉しかったこと』(同上、同号所載)
    『検閲-音楽-プロレタリア』(マルクス書房、月刊「プロレタリア芸術」1927年9月号所載)
    『闘争歌のうたい方』(秋田雨雀、江口渙 監修「綜合プロレタリア芸術講座 第2巻」[内外社、1931年]所収)
    『音楽家生活』(新知社、月刊「婦人文芸」1934年12月号所載)
    『女性の考え方』(労働文化社、月刊「労働文化」1947年1月号所載)
    『私の夢・古い新人』(「人民戦線」1947年6月号所載)
    『歌の「味」』(音楽の友社、月刊「音楽芸術」1947年10月号所載)
    『研究生終了演奏会(声楽)評」』(同上、1947年11月号所載)
    『歌唱指導』(「婦人文化講座 第3巻」[ナウカ社、1948年]所収)
    『働く人々の音楽報告』(毎日新聞社、月刊「労働評論」1948年8月号所載)
    『恋愛以前』(伊藤書店、「人民評論」1949年1月号所載)
    『コンクールの声楽』(「音楽芸術」1949年2月号所載)
    『哀れな娘』(民主青年合同委員会出版部、「われらの仲間」1949年4月号所載)
    『進むうたごえ』(中国留日同学総会編、半月刊「中国留日学生報」1949年5月15日号所載)
    『思い出』(「労働評論」1949年6月号所載)
    『自立楽団協議会について』(日本民主主義文化連盟 編「文化年鑑」1949年所収)
    『私のコンクール考』(同上、1950年5月号所載)
    『「おゝカリーナの花が咲く」 』(世界映画社、月刊「ソヴェト映画」1951年2月号所載)
    『プロコフィエフの声楽作品とその思想』(月刊「音楽芸術」1953年5月号所載)
    『国民音楽について』(日本共産党中央委員会理論政治誌「前衛」1953年6月号所載)
    『「音楽運動」発刊のことば』(音楽センター、月刊「音楽運動」1953年6月号所載)
    『内灘の闘いと音楽運動』(同上、1953年7月号所載)
    『世界青年祭各地のうたごえを「日本のうたごえ」に』(同上、1953年10月号所載)
    『うたごえ運動はさらに発展する』(同上、1954年2月号所載)
    『平和のうたごえをメーデーへ』(同上、1954年4月号所載)
    『高まるうたごえとさしせまる任務』(同上、1954年5月号所載)
    『八月十五日』(同上、1954年7月号所載)
    『婦人代表としての光栄と責任』(新女性社、月刊「新女性」1954年9月号所載)
    『日本と中国の平和のうたごえをよびかわそう』(「音楽運動」1954年10月号所載)
    『日本のうたごえは国民の運動-合唱団の任務のために-』(同上、1954年11月号所載)
    『世界の青春』(「新女性」1955年3月号所載)
    『愛する街-歌い方と楽典』(同上、1955年4月号所載)
    『ウィーン・アピールにこたえて-解説と体験記と署名用紙』(同上、1955年6月号所載)
    『平和と友情の旅から-ベルリンからウィーンへ』(同上、同号所載)
    『世界のうたごえは起っている』(知性社、月刊「知性」1955年9月号所載)
    『ワルシャワのうたごえ』(同上、1955年10月号所載)
    『世界のうたごえの旅』(「音楽運動」1955年11月号所載)
    『私が思うこと-藤井さんにお答えする』(「知性」1956年1月号所載)
    『国際列車』(「新女性」1956年3月号所載)
    『私のみた中国の演劇』(新読書社、「新読書」1956年4月17日号所載)
    『うたごえ運動の理論-音楽とは何か-』(音楽センター芸術局 編「知性」増刊号[河出書房、1956年]所載)
    『余談』(大山郁夫記念事業会 編「大山郁夫伝 別冊付録-大山先生の思い出」[中央公論社、1956年]所収)
    『友だち』(講談社、月刊「群像」1957年3月号所載)
    『期待と少しの不安』(学習の友社、月刊「学習の友」1959年1月号所載)
    『明るい楽しい思い出-本所のセツルメント』(福島正夫、川島武宜 編「穂積・末弘両先生とセツルメント」[東京大学セツルメント法律相談部、1963年]所収)
    『心の泉をくみとろう』(「学習の友」1964年2月号所載)
    『明るい思い出、ソ連楽旅』(音楽の友社、月刊「音楽の友」1964年8月号所載)
    『関鑑子自伝』(音楽評論社、月刊「音楽」1965年6月号より1966年2月号まで連載)
    『歌ごえを平和の力に』(日本平和委員会 編「平和運動20年記念論文集」[大月書店、1969年]所収)
    『中央合唱団の今日の任務』(「季刊日本のうたごえ」1971年4月創刊号所載)
    『歌ごえに魅せられて』(音楽センター、1971年)

    ■ 新聞・団体機関紙への寄稿
     
    『歌をつくりましょう-やさしく誰にもできます』(「アカハタ」1946年9月23日付)
    『諏訪根自子のクロイツェル・ソナタ』(「文化タイムス」1947年1月13日付)
    『職場に合唱団をつくるために-勤労芸術の道しるべ』(「労働民報」1947年5月24日付)
    『知恵も食べよう-働く若い人々へ-』(「労働民報」1947年9月3日付)
    『新しい音楽創造のために-ふたたび「作曲のすすめ」-楽曲の分析』(「アカハタ」1947年5月29日付)
    『私の青春時代』(日本青年共産同盟中央機関紙「青年の旗」1947年8月25日)
    『先生-今日の感想』(「東京民報」1947年8月27日付)
    『甘いもの好き』(「アカハタ」1947年10月21日付)
    『東西音楽家の提携-大阪文化会議所感』(「文化タイムス」1947年12月1日付)
    『たくましいコーラス』(「アカハタ」1948年3月23日付)
    『示威行進にスクラムを』(民主婦人連盟機関紙「民主婦人」1948年3月25日付)
    『みんなうたう会を』(「全逓新聞」1948年11月6日付)
    『損保従連・秋の文化祭-音楽コンクール評』(損害保険従業員組合連合会 東京支部機関紙「さけび」1948年12月24日付)
    『成長のために』(「青年の旗」1949年1月2日付)
    『音楽の大衆化』(善隣専門学校 編「善隣新聞」1949年2月20日付)
    『常磐炭鉱の青年の音楽』(日本民主青年団編、週刊「民主青年」1949年6月26日付)
    『みんなが生き生きとした歌をうたうためには』(婦人民主クラブ編、週刊「婦人民主新聞」1949年7月9日付)
    『青年の熱き心もて』(「民主青年」1954年1月26日付)
    『中央合唱団創立2周年を迎えて』(中央合唱団機関紙「うたごえ」1950年2月号)
    『具体的な詩音楽』(「アカハタ」1950年2月5日付)
    『世界の人々が無罪釈放運動を-民衆歌手ポール・ロブソンに訴える』(「うたごえ」1950年6月3日付)
    『平和署名を戦争を憎むすべての人たちに』(「うたごえ」1950年8月25日付)
    『中央合唱団16期生の入団に際して』(「うたごえ」1953年10月12日付)
    『ひとり思うこと』(「うたごえ」1954年1月7日付)
    『船出』(「うたごえ」1954年1月24日付)
    『国際婦人デーを迎えて』(「うたごえ」1954年2月25日付)
    『外人演奏家の来日と日本人-民族音楽への気運・萌芽はもうそこに』(「立命館学園新聞」1954年10月11日付)
    『進む平和! 高まる歌ごえ』(「婦人民主新聞」1954年10月30日付)
    『世界にひびけ平和のうたごえ-うたごえの発展は国民の力-』(日本のうたごえ実行委員会中央機関紙 共同デスク「うたごえ新聞」1954年12月15日付)
    『国際スターリン平和賞授賞式における挨拶』(日本のうたごえ実行委員会中央機関紙「うたごえ新聞」1956年8月20日付)
    『世紀の歌姫 三浦環夫人』(「婦人民主新聞」1954年8月26日付)
    『唇に歌 心に誇り』(「北國新聞」1955年12月18日付)
    『中国の音楽界-民族にも素晴らしい未来-』(「朝日新聞」1955年12月22日付)
    『生活とうたごえ』(日本民主青年同盟中央機関紙「民主青年新聞」1956年4月15日付)

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