2013年5月 のアーカイブ

石若雅弥さん、えっ32歳!

2013年5月18日 土曜日
この日は、演奏会の前に堺まで。祭典・大音楽会で演奏される「君死にたもうことなかれ」作曲・指揮者の石若雅弥さんに取材。
石若さんのことは、数年前から関西方面からの通信でよく伝えられ、日本のうたごえ祭典・合唱発表会〈女性の部〉でも選曲しているところが多い。ステージの姿は拝見していたが、えっ、32歳になったばかり。すると最初には拝見した頃は20代。取材にあたってプロフィールなどを見すると、すでに24歳で個展を開き、大学生など若者にも人気。
こちらの質問に、「うーん」と意見をまとめながらの丁寧に応対に好感を持つ。これを書いてみたいと今思われているものは、という質問に、そう思う間もないほど作曲依頼が殺到しているとか。
一番聞きたかったこと、与謝野晶子の生地、堺にあって、「晶子をうたう会」や晶子について造詣深い地で、吉田隆子の「君死にたもう…」以外に作曲しようと思ったのは? 答えは、晶子フォーラムから曲を依頼され、若い世代にこの詩を伝える曲を考えていると話すと、了解されてとの由。うむ。
「クラシックと気軽に楽しめる音楽、その垣根をとりはらいたい」という石若さん。祭典での出会いは彼の教えている合唱団とも広くジョイントできるかもしれない。
それにしても若い。指がきれいだ、これも強い印象。

20130517石若雅弥さん この日は、演奏会の前に堺まで。祭典・大音楽会で演奏される「君死にたもうことなかれ」作曲・指揮者の石若雅弥さんに取材。

石若さんのことは、数年前から関西方面からの通信でよく伝えられ、日本のうたごえ祭典・合唱発表会〈女性の部〉でも選曲しているところが多い。ステージの姿は拝見していたが、えっ、32歳になったばかり。すると最初には拝見した頃は20代。取材にあたってプロフィールなどを見すると、すでに24歳で個展を開き、大学生など若者にも人気。

こちらの質問に、「うーん」と意見をまとめながらの丁寧に応対に好感を持つ。これを書いてみたいと今思われているものは、という質問に、そう思う間もないほど作曲依頼が殺到しているとか。

一番聞きたかったこと、与謝野晶子の生地、堺にあって、「晶子をうたう会」や晶子について造詣深い地で、吉田隆子の「君死にたもう…」以外に作曲しようと思ったのは? 答えは、晶子フォーラムから曲を依頼され、若い世代にこの詩を伝える曲を考えていると話すと、了解されてとの由。うむ。

「クラシックと気軽に楽しめる音楽、その垣根をとりはらいたい」という石若さん。祭典での出会いは彼の教えている合唱団とも広くジョイントできるかもしれない。

それにしても若い。指がきれいだ、これも強い印象。

友・藤田一子さん

2013年5月18日 土曜日
前も書いたが、長年の友人、私はイチコと呼び、大阪で「ジュウソウ(十三)」と呼ばれる藤田一子さんのほぼフルステージでがんばっている姿にまた、感動した。関西合唱団の小編成ヴォーカルアンサンブルAVANTI(山田克子、相模、富樫各氏の4人)としても演奏。AVANTIの活躍は毎年の合唱発表会での金賞、この間のドイツ公演のレポートでも紹介されていた。結成18年。関西合唱団の専従から喫茶の経営者となって20年余。「経営していくってほんま大変やあ」と言いながら、つぶれないでやってきた。ずっとレッスンも続け、人を魅了する演奏を続けている。彼女のアルトは絶品。今回またあらためて。
仕事がらおてのものだろうが、40人分のサンドイッチも朝早く起きて作ったという。そのバイタリティ。「十三」だから口調は荒いが心優しい。私にもサンドイッチを用意していてくれたり(とてもおいしかった)、ドイツのお土産も。
20130517f藤田さん

藤田さん、ドイツ公演通信写真のスナップ拝借。左はアバンティの相模さん

前も書いたが、長年の友人、私はイチコと呼び、大阪で「ジュウソウ(十三)」と呼ばれる藤田一子さんのほぼフルステージでがんばっている姿にまた、感動した。関西合唱団の小編成ヴォーカルアンサンブルAVANTI(山田克子、相模、富樫各氏の4人)としても演奏。AVANTIの活躍は毎年の合唱発表会での金賞、この間のドイツ公演のレポートでも紹介されていた。結成18年。関西合唱団の専従から喫茶の経営者となって20年余。「経営していくってほんま大変やあ」と言いながら、つぶれないでやってきた。ずっとレッスンも続け、人を魅了する演奏を続けている。彼女のアルトは絶品。今回またあらためて。

仕事がらおてのものだろうが、40人分のサンドイッチも朝早く起きて作ったという。そのバイタリティ。「十三」だから口調は荒いが心優しい。私にもサンドイッチを用意していてくれたり(とてもおいしかった)、ドイツのお土産も。

関西合唱団第78回定期演奏会

2013年5月18日 土曜日
関西合唱団第78回定期演奏会を聴く
委嘱3作品、大阪城ホールでのイメージが
守屋さんのステージ、その空気
常にうたごえ運動を創造面でもリードしている関西合唱団。うたごえ65周年記念委嘱作品初演、常任指揮者・守屋博之さんの定期演奏会指揮の最後、これは聞き逃せないと演奏会1日目に出かけた。北海道はじめ全国のうたごえメンバーも来ていた。(2日目の19日も満席と聞く)
第1部は1時間、すべて山本恵造さん指揮。これもすごい。65人が並ぶステージ。そして一曲目の「Yesterday」、テノールの相模さんのクリアなテノールがリードし歌われていく演奏に引き込まれる。「人間の歌」(門倉さとし詞、林学曲)、先月聴いた“合唱団この灯”の「燃える川」に続いて深い学さんの曲に聞き入る。名古屋合唱団の鳴海さんのソロがずっと頭にあるが、富樫さんもすてき。
そして65周年委嘱作品初演。「わたしの育てた稲」「聴く力」「風を返して 土を返して」。「風を…」は最後に何度も重なるリフレインのところを会場と一緒に歌う。11月2日、日本のうたごえ祭典・大音楽会大阪城ホール、一万人でのその響きは…。先日、新実先生が言われた「みんなで福島への想いをみんなで届ける」が実感できる圧巻のシーンになるに違いない。
第二部は、守屋さんの指揮。気のせいか、ステージも客席も空気ががらっと変わった。その集中感はやはり守屋さんだろう。
この日に帰郷しなければならず最後まで聴けないスケジュールを組んでしまったことを嘆きながら。会場を出た。

関西合唱団第78回定期演奏会を聴く
委嘱3作品、大阪城ホールでのイメージが 守屋さんのステージ、その空気

常にうたごえ運動を創造面でもリードしている関西合唱団。うたごえ65周年記念委嘱作品初演、常任指揮者・守屋博之さんの定期演奏会指揮の最後、これは聞き逃せないと演奏会1日目に出かけた。北海道はじめ全国のうたごえメンバーも来ていた。(2日目の19日も満席と聞く)

第1部は1時間、すべて山本恵造さん指揮。これもすごい。65人が並ぶステージ。そして一曲目の「Yesterday」、テノールの相模さんのクリアなテノールがリードし歌われていく演奏に引き込まれる。「人間の歌」(門倉さとし詞、林学曲)、先月聴いた“合唱団この灯”の「燃える川」に続いて深い学さんの曲に聞き入る。名古屋合唱団の鳴海さんのソロがずっと頭にあるが、富樫さんもすてき。

そして65周年委嘱作品初演。「わたしの育てた稲」「聴く力」「風を返して 土を返して」。「風を…」は最後に何度も重なるリフレインのところを会場と一緒に歌う。11月2日、日本のうたごえ祭典・大音楽会大阪城ホール、一万人でのその響きは…。先日、新実先生が言われた「みんなで福島への想いをみんなで届ける」が実感できる圧巻のシーンになるに違いない。

第二部は、守屋さんの指揮。気のせいか、ステージも客席も空気ががらっと変わった。その集中感はやはり守屋さんだろう。

この日に帰郷しなければならず最後まで聴けないスケジュールを組んでしまったことを嘆きながら。会場を出た。

沖縄「返還」の日

2013年5月15日 水曜日

5月15日。きょうは沖縄「返還」の日。核抜き・本土並み沖縄返還!とたたかった沖縄返還闘争、4・28沖縄デーが、私の大学入学初のデモ参加だった。そこで覚えた「沖縄を返せ」「あかつきの空に」。沖縄は日本復帰したが、核も基地もそのまま。1955年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効で、沖縄は日本から切り離され、米軍の沖縄支配が始まった。こともあろうにこの日を「主権回復の日」などと、歴史の改ざんは許されない。

「グレート・ラブ 関鑑子の生涯」を書いた

2013年5月14日 火曜日

昨年11月27日から約半年ぶりでブログ再開。

そう、半年前のこのあたりから寝ても覚めても鑑子様の日々が始まった。
「さあ、アキコちゃん、きょうも行きますか」と、うたごえ新聞編集の合間に会う。しかし、しかし、あまりに大きな人を前に、途方に暮れ、時に逃げ出したくなったが、時は矢のように過ぎ、とうとう年末年始も格闘となった「グレート・ラブ 関鑑子の生涯」の執筆だった。
井の中の蛙  仰天の日々
音楽センターの道田隆司社長(うたごえ65周年記念事業出版委員)から、「関鑑子先生没40年に、後世の人たちに伝える先生の足跡をまとめてみないか。これまで出ている先生に関する文献を編むという形で」と話をもらったのはもういつだったか、忘れた。昨年夏の終わり頃だったか。
その時、そんな大きなこと私には…、と言わない私。これまで、うたごえ新聞の仕事で折に触れて、実物にはお会いできなかったが、関鑑子さんについて取材もしてきたのだから、それはうたごえ新聞に長年勤めている私の役目かもしれないし、そういう大きな仕事に、果然やる気が出る私は、「おもしろそう」と引き受けた。
どっさりある資料、これまでにも読んでいたものはあったが、読む視点が違うと、こんなことが書いてあったのか、と「発見」の続出。
やがて出版社が決まり、担当編集者Kさんと打ち合わせ。Kさんは前作「世界をつなぐ歌『ねがい』」の担当者。この出版の話も、道田社長でした(深く感謝)。
Kさんは、なかなか鋭い、かつ、文言、捉え方の指摘が、厳しい。いや、的確。「今回もよろしく、おねがいします」とスタート。
そのあとすぐに、編むのではなく、評伝として書き下ろす形の方が読まれる。その方向で構成(プロット)をまとめるように言われた。実はその方が自分のなかで見えてくると、これも不遜ながら、引き受けた。
それからが大変。読めば読むほど調べれば調べるほど、関鑑子さんはスケール大きな人、そして大きな仕事をされた…。時間がない。能力も。井の中の蛙は仰天の日々。
書く骨が折れる前に首が…
9月中頃だったか、プロット作成のために、あらためて土日を使った2日で資料を再度通読した。日曜の夕刻あたりから、首がなんだか痛い。そして月曜日の朝、頭を垂れた「すみません」の姿勢から頭があげられない。首を曲げたままの姿勢でバスに乗り、出社。パソコンには向かえるけれど、人と話す時も頭は垂れたまま上がらない。
全国協事務局御用達の「整体」に走り、生まれて初めて針を打った。針は「必殺仕事人」のあのイメージで、これまでとても怖くてノーサンキューだったが、そんなことは言っていられない。頭が上がるまで首はギブス。本人以上にまわりが驚く痛々しい姿が一週間続いた。思えばその後半年間の苦難を暗示していた。
草創期のみなさんの
関先生を語るほとばしり出る言葉
秋が深まった頃、タイトルとプロット、書き出しを提出。それを見て、K編集者や道田さんらの、「いいよ、楽しみだよ」「ここまで来たら大丈夫」に載せられつつも、内心は怖い。プロット通り、書けるかしら。
けれど、そう言ってもらえたプロットが出せたのは、関鑑子その人の業績が私によくわかるように伝えてもらったこと、関鑑子さんを語る人たちの話、30年うたごえ新聞編集のなかで運動の幹というものと向き合ってきたことが大きい。
今はもうお話ができないが、関鑑子さんとうたごえ運動を始めた、中央合唱団一期生の奈良恒子さんには、私がうたごえ新聞社に入った時から折に触れて、いろいろ関鑑子さんのことを聞かせてもらった。17歳でうたごえ運動に参加した奈良さんは、情熱的に先生の理想、教え、草創期の北海道オルグ、モスクワでの世界青年学生祭典でのことなどを話してもらっていた。
ずっと全国協議会で一緒だった高橋正志前会長は、世界的な声楽家の演奏やオペラを聴かせ、音楽教育にも勢力的だった関先生の運動論を聞いていた。
その上に今回執筆に当たって大きかったのは、うたごえ運動草創期から現在も現役で活動されている檀上さわえさん、堀喜美代さん、渡辺昌子さん、柴田泰子さんらに3回に渡って座談会をもらいてもらったこと。
みなさんからほとばしり出る関先生を語る言葉、60余年前の一コマ一コマをまるで昨日のことのように話される。関先生の厳しいレッスンがなんのためにあったのかを、一人ひとり、しっかり心にしみて感じておられる。
第四章「国民音楽の創造 鑑子と『うたごえ』がめざしたこと」は、最初の案では「うたごえの種まいた草創期の人々」にしていた。実は、そこに、関鑑子が目指したうたごえ運動とそれを実践していった草創期の人たちの営みが、私にあらためてうたごえ運動とは、伝えた。詳しくはこの章に。
「グレート・ラブ 関鑑子」の
タイトルは
草創期のみなさんの師への尊敬、その源は、グレート・ラブ。それは、関鑑子追想集「大きな紅ばら」の関鑑子自伝の中に出てくる、鑑子の師ハンカ・ペッッオルト夫人の教えでもあった。音楽、芸術の源は大きな人類愛であるとの教えたペッッオルトの教えに、鑑子は深く影響を受けたのを感じた。音楽はなんのために…、タイトルは迷わず「グレート・ラブ 関鑑子の生涯」とした。
興味深いうたごえ運動前野のこと
創立直後の財政のこと
そして今回、運動史からも一つ、提出できたと思うのは、うたごえ運動創立前夜のこと。これはひとえに、関鑑子さんの娘で声楽家の小野光子先生の力である。小野先生が、関鑑子生誕100年の時、「うたごえ運動が誕生していった背景・創立前夜のこと、直後のことをきちんと記しておくことも必要ではないか」と座談会を提案された。先生の尽力で、うたごえ運動創立前夜を語る土方与平、近江幸正両氏に2回、草創期、中央合唱団の財政を担当した磯常男、柴田慎一両氏に1回の座談会は、季刊「日本のうたごえ」誌で紹介した。
この座談会は私自身、とても興味深く聞いていたので、今回の中にいかそうと思った。その後、土方、近江両氏とも亡くなり、貴重な証言ある。
除夜の鐘を聞きながら
話を聞けば聞くほど、資料を読めば読むほど、興味は尽きない。プロットは出したものの、肉付けは感嘆ではない。一つ一つの事象、知らない世界でもあり、一行書いては原本と照合、その繰り返し。編集者のKさんは、正月明けに第一稿提出と言う。四月末の発行に、それはサバを読んで、と思いつつ、年が明ければまた書く時間はなかなかとれない。暮れと正月の実家帰りは資料持参となった。いつもは酔いしれる私も、今回ばかりはお酒もそこそこに、除夜の鐘を聞きながら書いていたのは、後で思えばぞっとするほんの最初の方だった。
結局、実家では落ち着かず、早々に東京に戻り、書く。
正月明けからは、ほとんど心ここにあらず。少し進んでは書けなくなる…。かつ、書いてもまだ1950年代…、いつ終わりが来るのだろう…かと。
そんな時、昼食の女子会での音楽センターのMさんの一言「必ず終わりは来るのですよ」、がその頃の私のカンフル剤だった。
第一稿提出、実はそこからが
格闘の日々
正月明け原稿提出は、執行猶予がついて一月下旬。第一稿を編集者Kさんに渡す。実はそれからが大変だったのだ。
これはどういうこと? この裏付けは? といくつもの付箋。これは面白いぞ!と書いたところが「これは要らないですね」とバッサリ。「でもあのその…」と私。「いや、なくていいです」と編集者氏。私、シュン。
「これも要らないんじゃないですか」とまた一つ二つと出てくる。「いや、これは要るんです」と死守したひとつに、アンナ・パブロアに外国の演奏先で助けられた話。そういえば、鑑子は東京音楽学校を首席で卒業している。その部分も削除されている。なぜ? と編集者に追求する余裕もないほど、?マークへの解答に追われた。「この表現は、うたごえ運動をやっている人しかわからん」と言われたり…。うたごえ新聞を作っていて、いわゆるうたごえ用語は使わないことに気をつけていたけれど、目が違うとやはり…。
一応、原稿を書き終えて次は推敲・校正。これがまた。前回の本「ねがい」の時とは今回は違った。校正は、私と編集者K氏に、音楽の専門家、文章の専門家も入り、その間に再度原稿見直し。何度も資料を見直しているうち、とうとう資料の一冊はボロボロになった。(なのに誤字が(^^;))
そうこうして第二稿を出して、全国総会へ。全国総会で「期待してるよ」との励ましのことばに、身が縮む想いのこの頃。
「子ども、300人 来たよ!」
「これで責了」と編集者K氏のことばを聞いたのは三月下旬。やっと解放!という気分にはなれない。とんだ事実誤認があったら…。
書き上げた原稿を、小野先生に持って行くと「見ないわ、あとから間違い集を出すから」と笑いながら言われたが、ドキドキ。
そして、4月13日、正式出版は関鑑子さんの命日5月2日だが、「関鑑子没40年記念のつどい」が開かれる前日につどい用に300冊が音楽センターに届いた。外出から戻ると音楽センターのAさんが私に「子ども、300人、来たよ!」。そう、この本は私の子ども!
「関鑑子没40年記念のつどい」でも私はこう言った。
「関先生と活動を共にされた方々にはきっと足りない部分もいっぱいあると思います。未熟な私が生み出したこの本は私の子ども、みなさんの話も補っていただいて子どもを育てていってください」。
小野先生からの
うれしい電話とはがき
病後で「つどい」には出席されなかった小野先生のところに、道田社長と「つどい」の報告と本を持ってうかがった。小野先生はつどいが盛会だったこと、本が出たことを喜んでくださった。
でも、これから、読まれた後どんな反応か…、とまだまだ、緊張はつづく。
数時間して小野先生から、「途中まで読んだわ。とてもいいわよ。まず、それを伝えようと思って」とうれしい電話に、やっとほんとうに少し、安堵。
そして、その後、小野先生から2度のはがきや電話をもらう。
「何度も読み、涙を流している。私の知らない母も知った」とあり、やっと安堵している。これから子育てに本腰を入れなきゃ!

20130414グレートラブ そう、半年前のこのあたりから寝ても覚めても鑑子様の日々が始まった。

「さあ、アキコちゃん、きょうも行きますか」と、うたごえ新聞編集の合間に会う。しかし、しかし、あまりに大きな人を前に、途方に暮れ、時に逃げ出したくなったが、時は矢のように過ぎ、とうとう年末年始も格闘となった「グレート・ラブ 関鑑子の生涯」の執筆だった。

井の中の蛙  仰天の日々

音楽センターの道田隆司社長(うたごえ65周年記念事業出版委員)から、「関鑑子先生没40年に、後世の人たちに伝える先生の足跡をまとめてみないか。これまで出ている先生に関する文献を編むという形で」と話をもらったのはもういつだったか、忘れた。昨年夏の終わり頃だったか。

その時、そんな大きなこと私には…、と言わない私。これまで、うたごえ新聞の仕事で折に触れて、実物にはお会いできなかったが、関鑑子さんについて取材もしてきたのだから、それはうたごえ新聞に長年勤めている私の役目かもしれないし、そういう大きな仕事に、果然やる気が出る私は、「おもしろそう」と引き受けた。

どっさりある資料、これまでにも読んでいたものはあったが、読む視点が違うと、こんなことが書いてあったのか、と「発見」の続出。

やがて出版社が決まり、担当編集者Kさんと打ち合わせ。Kさんは前作「世界をつなぐ歌『ねがい』」の担当者。この出版の話も、道田社長でした(深く感謝)。

Kさんは、なかなか鋭い、かつ、文言、捉え方の指摘が、厳しい。いや、的確。「今回もよろしく、おねがいします」とスタート。

そのあとすぐに、編むのではなく、評伝として書き下ろす形の方が読まれる。その方向で構成(プロット)をまとめるように言われた。実はその方が自分のなかで見えてくると、これも不遜ながら、引き受けた。

それからが大変。読めば読むほど調べれば調べるほど、関鑑子さんはスケール大きな人、そして大きな仕事をされた…。時間がない。能力も。井の中の蛙は仰天の日々。

書く骨が折れる前に首が…

9月中頃だったか、プロット作成のために、あらためて土日を使った2日で資料を再度通読した。日曜の夕刻あたりから、首がなんだか痛い。そして月曜日の朝、頭を垂れた「すみません」の姿勢から頭があげられない。首を曲げたままの姿勢でバスに乗り、出社。パソコンには向かえるけれど、人と話す時も頭は垂れたまま上がらない。

全国協事務局御用達の「整体」に走り、生まれて初めて針を打った。針は「必殺仕事人」のあのイメージで、これまでとても怖くてノーサンキューだったが、そんなことは言っていられない。頭が上がるまで首はギブス。本人以上にまわりが驚く痛々しい姿が一週間続いた。思えばその後半年間の苦難を暗示していた。

草創期のみなさんの関先生を語るほとばしり出る言葉

20130414関鑑子のつどい中央合唱団 秋が深まった頃、タイトルとプロット、書き出しを提出。それを見て、K編集者や道田さんらの、「いいよ、楽しみだよ」「ここまで来たら大丈夫」に載せられつつも、内心は怖い。プロット通り、書けるかしら。

けれど、そう言ってもらえたプロットが出せたのは、関鑑子その人の業績が私によくわかるように伝えてもらったこと、関鑑子さんを語る人たちの話、30年うたごえ新聞編集のなかで運動の幹というものと向き合ってきたことが大きい。

今はもうお話ができないが、関鑑子さんとうたごえ運動を始めた、中央合唱団一期生の奈良恒子さんには、私がうたごえ新聞社に入った時から折に触れて、いろいろ関鑑子さんのことを聞かせてもらった。17歳でうたごえ運動に参加した奈良さんは、情熱的に先生の理想、教え、草創期の北海道オルグ、モスクワでの世界青年学生祭典でのことなどを話してもらっていた。

ずっと全国協議会で一緒だった高橋正志前会長は、世界的な声楽家の演奏やオペラを聴かせ、音楽教育にも勢力的だった関先生の運動論を聞いていた。

その上に今回執筆に当たって大きかったのは、うたごえ運動草創期から現在も現役で活動されている檀上さわえさん、堀喜美代さん、渡辺昌子さん、柴田泰子さんらに3回に渡って座談会をもらいてもらったこと。

みなさんからほとばしり出る関先生を語る言葉、60余年前の一コマ一コマをまるで昨日のことのように話される。関先生の厳しいレッスンがなんのためにあったのかを、一人ひとり、しっかり心にしみて感じておられる。

第四章「国民音楽の創造 鑑子と『うたごえ』がめざしたこと」は、最初の案では「うたごえの種まいた草創期の人々」にしていた。実は、そこに、関鑑子が目指したうたごえ運動とそれを実践していった草創期の人たちの営みが、私にあらためてうたごえ運動とは、伝えた。詳しくはこの章に。

「グレート・ラブ 関鑑子」のタイトルは

草創期のみなさんの師への尊敬、その源は、グレート・ラブ。それは、関鑑子追想集「大きな紅ばら」の関鑑子自伝の中に出てくる、鑑子の師ハンカ・ペッッオルト夫人の教えでもあった。音楽、芸術の源は大きな人類愛であるとの教えたペッッオルトの教えに、鑑子は深く影響を受けたのを感じた。音楽はなんのために…、タイトルは迷わず「グレート・ラブ 関鑑子の生涯」とした。

興味深いうたごえ運動前野のこと、創立直後の財政のこと

そして今回、運動史からも一つ、提出できたと思うのは、うたごえ運動創立前夜のこと。これはひとえに、関鑑子さんの娘で声楽家の小野光子先生の力である。小野先生が、関鑑子生誕100年の時、「うたごえ運動が誕生していった背景・創立前夜のこと、直後のことをきちんと記しておくことも必要ではないか」と座談会を提案された。先生の尽力で、うたごえ運動創立前夜を語る土方与平、近江幸正両氏に2回、草創期、中央合唱団の財政を担当した磯常男、柴田慎一両氏に1回の座談会は、季刊「日本のうたごえ」誌で紹介した。

この座談会は私自身、とても興味深く聞いていたので、今回の中にいかそうと思った。その後、土方、近江両氏とも亡くなり、貴重な証言ある。

除夜の鐘を聞きながら

話を聞けば聞くほど、資料を読めば読むほど、興味は尽きない。プロットは出したものの、肉付けは感嘆ではない。一つ一つの事象、知らない世界でもあり、一行書いては原本と照合、その繰り返し。編集者のKさんは、正月明けに第一稿提出と言う。四月末の発行に、それはサバを読んで、と思いつつ、年が明ければまた書く時間はなかなかとれない。暮れと正月の実家帰りは資料持参となった。いつもは酔いしれる私も、今回ばかりはお酒もそこそこに、除夜の鐘を聞きながら書いていたのは、後で思えばぞっとするほんの最初の方だった。

結局、実家では落ち着かず、早々に東京に戻り、書く。

正月明けからは、ほとんど心ここにあらず。少し進んでは書けなくなる…。かつ、書いてもまだ1950年代…、いつ終わりが来るのだろう…かと。

そんな時、昼食の女子会での音楽センターのMさんの一言「必ず終わりは来るのですよ」、がその頃の私のカンフル剤だった。

第一稿提出、実はそこからが 格闘の日々

正月明け原稿提出は、執行猶予がついて一月下旬。第一稿を編集者Kさんに渡す。実はそれからが大変だったのだ。

これはどういうこと? この裏付けは? といくつもの付箋。これは面白いぞ!と書いたところが「これは要らないですね」とバッサリ。「でもあのその…」と私。「いや、なくていいです」と編集者氏。私、シュン。

「これも要らないんじゃないですか」とまた一つ二つと出てくる。「いや、これは要るんです」と死守したひとつに、アンナ・パブロアに外国の演奏先で助けられた話。そういえば、鑑子は東京音楽学校を首席で卒業している。その部分も削除されている。なぜ? と編集者に追求する余裕もないほど、?マークへの解答に追われた。「この表現は、うたごえ運動をやっている人しかわからん」と言われたり…。うたごえ新聞を作っていて、いわゆるうたごえ用語は使わないことに気をつけていたけれど、目が違うとやはり…。

20130414Nishisan

日本のうたごえ全国協議会 西会長と

一応、原稿を書き終えて次は推敲・校正。これがまた。前回の本「ねがい」の時とは今回は違った。校正は、私と編集者K氏に、音楽の専門家、文章の専門家も入り、その間に再度原稿見直し。何度も資料を見直しているうち、とうとう資料の一冊はボロボロになった。(なのに誤字が(^^;))

そうこうして第二稿を出して、全国総会へ。全国総会で「期待してるよ」との励ましのことばに、身が縮む想いのこの頃。

「子ども、300人 来たよ!」

「これで責了」と編集者K氏のことばを聞いたのは三月下旬。やっと解放!という気分にはなれない。とんだ事実誤認があったら…。

書き上げた原稿を、小野先生に持って行くと「見ないわ、あとから間違い集を出すから」と笑いながら言われたが、ドキドキ。

20130414SekiParty そして、4月13日、正式出版は関鑑子さんの命日5月2日だが、「関鑑子没40年記念のつどい」が開かれる前日につどい用に300冊が音楽センターに届いた。外出から戻ると音楽センターのAさんが私に「子ども、300人、来たよ!」。そう、この本は私の子ども!

「関鑑子没40年記念のつどい」でも私はこう言った。

「関先生と活動を共にされた方々にはきっと足りない部分もいっぱいあると思います。未熟な私が生み出したこの本は私の子ども、みなさんの話も補っていただいて子どもを育てていってください」。

小野先生からのうれしい電話とはがき

病後で「つどい」には出席されなかった小野先生のところに、道田社長と「つどい」の報告と本を持ってうかがった。小野先生はつどいが盛会だったこと、本が出たことを喜んでくださった。

でも、これから、読まれた後どんな反応か…、とまだまだ、緊張はつづく。

数時間して小野先生から、「途中まで読んだわ。とてもいいわよ。まず、それを伝えようと思って」とうれしい電話に、やっとほんとうに少し、安堵。

そして、その後、小野先生から2度のはがきや電話をもらう。

「何度も読み、涙を流している。私の知らない母も知った」とあり、やっと安堵している。これから子育てに本腰を入れなきゃ!