6月15日。6/25号発送。
1面は、この9、10日、東京公務公共一般労働組合の友人に誘われて行った東電福島第1原発事故現場から20㌔圏内の南相馬のことを紹介した。今回のブログはin福島。
1面のトップ写真のように、どれほどの力が加えられたか、想像すらできない壊れた家々、雨の午後、薄暗く静止状態の町に信号機の色だけが変わる南相馬・尾高町。「立ち入り禁止」解除で、泊まることはできないが、昼間は元の家に戻れる避難者のために、信号は稼働している。
案内してもらった三浦広志さん(農産物供給センター代表理事)も鹿島区小池の仮設住宅住まい。9日、三浦さんの元の家がある井田川へ。
途中、津波が襲って一階部分ががらんどう(『抜けた』)の家々(写真上、左)。そのなかに大きな冷蔵庫が横倒しに、道ばたにぐじゃぐじゃにつぶれた自動販売機や車が点在する。
新聞でも紹介したが、浜の近くの三浦さんの家に向かう時、「海ですか」と聞いた私の目の前の光景は、一面の水面に島のようなものが点々と見える。それは水が乗った水田、島に見えたのは車体だった。
「あれがわが家です」、三浦さんが示すその家は二階建て、広めにとられているようなベランダ、窓には白いレースもかかり、遠目には無傷のように見えるが、ここも津波が襲った。(写真上、中央)
「原発さえなければ、すぐに補修に入れる。住めようにする手立てが打てる。事故以来、放射能で入れないから家も町も朽ちていってしまっているんです」。
と三浦さんは言った。そしてそれは、地震と津波で家が壊滅したらそれも辛いが諦めるしかない。だが、一見無傷のように建つ家に住めない、修復できない、それをこの1年余、見てきているのもさらに辛いだろうと思った。
地震、津波でも大被害だが、さらにその修復への手を止めている原発事故被災。家も町も、田んぼも酪農も、復興への大きな壁となって立ちはだかっている。
南相馬を離れる間際、三浦さんが、岩手大学出身で、岩大うたごえサークルで歌っていたと聞き、ええっ!「きたがわてつさんは先輩です。よろしくお伝え下さい」。まあ!