2010年1月 のアーカイブ

東京〜奈良 るんるん気分で東京へ

2010年1月25日 月曜日

先週、22日は被団協(日本原水爆被害者団体協議会)の田中熙巳事務局長に取材、夜は全国創作合宿の1日目創作シンポジウム、そして24日は奈良のうたごえの恒例行事“新春うたはじめ・うた新フォーラム&うたごえ喫茶”に出かけた。 

被団協の田中熙巳事務局長(写真下左)への取材は、前号の2/1号紹介の平和委員会代表理事・佐藤光雄さんと同じく、今年のNPT再検討会議成功・うたごえ代表団派遣運動への示唆をいただく趣旨。

20100122被団協田中さん20091204日うたin長崎田中運営委員長田中さんは長崎で被爆。
「兄は当時、長崎の海軍兵学校にいましたから被爆していないのですが…」と語る、その兄は今年の日本のうたごえ祭典in長崎運営委員長、うたごえ新聞に連載〈らんだむ長崎さるく〉執筆者田中實さん(写真右側)。
まさに光齢期で活躍のご兄弟である。

「怒りの広島、祈りの長崎」ということばがある。
“隠れキリスタン”の地・長崎、キリスト教弾圧の歴史、そして広島と異なる地形などからくる被害・運動の表し方の違いからそう言われるが、私はこのことば・表現には疑問を持っている。
20100122被団協田中さんの説明だが、田中氏の原爆投下時の図解説明にあらためて、被害の複雑さを思った。
お話の中心、被爆者にとってこの2010年という年、この年に開かれるNPT再検討会議の持つ意味など、深いお話を聞かせてもらった。
お話は季刊「日本のうたごえ」に、抜粋でうたごえ新聞にも紹介するので、そちらに期待してもらうとして、私が佐藤・田中両氏への取材で思ったことを紹介したい。 
それは戦後65年、「戦後の荒廃のなかでと…」と言われるその当時よりむしろ今の日本は、貧しくなっている、暮らしにくい、生きにくい時代になっているということ。
被爆当時、すでに両親を亡くしていた佐藤さんは、原爆で身内13人を亡し、やがて親代わりだった祖母も亡くす。
13歳からアルバイトで自活して医師を志し、大学の医学部に合格する。
医師へとかりたてたものは、身内の死、原爆から8年後、被爆時かすり傷一つ負わなかった姉や級友の突然死、被爆後、被爆者に対してモルモットのように「治療」ではなく「調査」を行った連合軍司令部の調査委員会(ABCC)への怒りだったと言う。
とはいえ、両親も後ろ盾もないなかで医学部への合格は、今の時代で考えられるだろうか。
田中熙巳さんも、被爆前から母子家庭で育ち、原爆の直撃は免れたが、暮らしは大変で、大学を卒業後は働かなくてはならなかった。
が、命を、暮らしを一瞬にして奪い去った原爆、「原爆とは何か」をつきつめたいと大学での物理学研究を志す。
そして、大学に進学し、やがて大学教授となる。
今の日本では、将来の夢も希望も家庭の経済状況で左右されてしまう。
今とは比べものにならないほどの戦後の経済状況、まして親もなく、被爆地での暮らしの大変さは私の想像を越えている。
にもかかわらず、本人の意志と努力を押し上げる社会がそこにあった。
経済状況も諸制度もこの65年、日本は進んだはずなのに、押し上げていくネットは壊されている。
取材からの感動と発見・出会いと同時に、そんな重たいものが広がっていた。

20100123創作シンポその足で、被団協のある港区から、創作シンポジウムの会場、墨田区へ。 
シンポジウムは、昨年5月に亡くなってしまったが、作曲家林学さんが残した作品が語りかける、心打つ曲作りへのアドバイスが語られた。
シンポジストの小村公次、木下そんき、石黒真知子さんらのことばから、それは読まれる文章を書くことにも相通じると、一言一言、書き手でもある自分に問いかけながら聞いた。
これもこの後の季刊「日本のうたごえ」誌上で紹介する。 

20100124奈良うた新フォーラムそして、24日は奈良のうたごえ“新春うたはじめ・うた新フォーラム&うたごえ喫茶”の奈良へ。
新年にうたごえ協議会の“うたはじめ”として開催されているこのつどい。
毎回、ここにうた新フォーラムが位置づけられているのがうれしい。
奈良のうたごえは今年のNPT再検討会議成功へ、5人の代表を派遣する。
協議会での活発な派遣運動=歌を広める、核兵器廃絶署名を集める=のとりくみ、そこにうたごえ新聞読者拡大も位置づけられている。
ただ今、創刊55周年のうたごえ新聞、全国総会を過去最高の読者で迎えようという読者拡大特別月間まっただ中。
奈良では、月間に入って二桁の新読者を迎えている。
「今が増やす時、姪や甥にこの新聞読みなさいと勧めました」と10人に広めた奈良蟻の会合唱団の田畑昭子さん。
「なぜ私が勧めるか。私の好きな記事は…」、うたごえ新聞の魅力もたっぷり語ってもらった。
うたごえ新聞の話をしに行った私が、田畑さんのお話で大いに励まされる。
つづく愛称“赤い唇”でいつもお話も魅力的な上殿紀久子議長のお話に元気、さらに拍車。
「歌の普及・署名行動に今年の新年号は抜群の力。田上長崎市長へのインタビューや高校生一万人署名活動の高校生たち。この高校生の記事に元気もらいます。みなさん、署名行動の時にはこの新年号を持って、読者をふやしましょう。」
私は小躍りしたい気分。いや、していた。
 このつどいが始まる前に新聞を薦められたある参加者は、ほかにも読むものがいっぱいだからと断っていたが、私の話のあと、「新聞の内容の話を聞いていて、読もうかと思いました」の一言に、元気いっぱいるんるん気分で奈良を後にした。

54年ぶりの再会に立ち会う

2010年1月15日 金曜日

なんとめまぐしかったこの一週間。ブログを書く時間もなかった。

 今週の月曜日11日は祝日。なんで祝日なのか、昔のように「固定した日」ではないため分からなくなる。
そうだこの日は成人式だった。
渡辺昌子さん(本日発行の1/25号に関連紹介)のコンサートに八王子まで出かけ、その途中、振り袖姿の新成人を見て、わかった。

 毎週月曜日は原稿締め切りラフレイアウト(つまりこの日に毎号の紙面を確定させる)で私は一番忙しい日なのだが、取材はもちろん最優先、コンサートの取材、聴きに行くことを入れることもある。
  で、渡辺昌子さんのコンサート。1/25号8面の記事は、スペースの制約から書けなかったことが多く、ここで紹介。

 まず、このコンサートは、昨年10月、渡辺さんが、堀喜美代さん、永野睦子さん (いずれも元中央合唱団常任活動家、現在も声楽家として声楽、合唱指導者として精力的に活動されている) 3人合わせるとゆうに200歳を越えるといううコンサートがあったが、今回のコンサートはその時の渡辺さんのパートを2時間余で構成されたもの。
20100115Watanabe01タイトルは“三人でおくる新春コンサート”で、3人は、メゾソプラノ渡辺昌子、一人芝居有馬理恵、ピアノ金井信の各氏。
メゾソプラノ独唱で昌子さんが日本、外国の歌曲を。
俳優座の有馬さんは水上勉の「釈迦内柩唄」一人芝居をダイジェスト版、金井さんは映画音楽メドレーと「崖の上のポニョ」のアレンジ講座(?!)。
そして第2部は3人で従軍慰安婦をテーマにした歌物語。
第3部みんなうたう会というプログラム。

第2部の構成はこれからも3人で各地で公演していきたいと言う。
さらに東京・絹の道合唱団の主宰である昌子さんは11月、外山雄三さんに委嘱した戦争と平和をテーマにした合唱組曲「千鳥ヶ淵で」を初演するという。
三多摩青年合唱団の指揮者から、50代になって絹の道合唱団を創設、最近は憲法ミュージカルにも声楽指導他で活動、そこで出会った有馬さんとの共演と、その“開拓精神”にいつも感嘆している。

そんな渡辺さんから、こんな機会があるの、うたごえ新聞の編集者としても興味ない? とお誘いを受けたのが54年ぶりというポーランドのミコエル・メラノヴィッチさんとの再会の場面だった。
聞けば、ワルシャワ大学の教授をつとめ、ポーランドの日本文学の最高実力者の一人メラノヴィッチ氏が日本文学を志したのは、1955年、ポーランド・ワルシャワで開かれた世界青年学生祭典(世界平和友好祭)での日本のうたごえ代表団との出会いだった、という。
20100115Watanabe02当時ワルシャワ大学の学生で友好祭の手伝いをしていたメラノヴィッチ氏が54年ぶりにその一人、渡辺さんを訪ねる。
ドラマチック、「ぜひ」とその再会の場、となった渡辺さんのお宅に伺ったのは昨年11月30日。

 実は私はメラノヴィッチさんに2度お目にかかっている。
最初は、06年、合唱組曲「悪魔の飽食」全国縦断コンサート静岡・三島公演の時。
この時既に翌年の同曲のポーランドとチェコでのヨーロッパ公演が決まっており、メラノヴィッチさんは現地受け入れとしてコンサートにも来られていた。
そして、二回目はそのポーランドとチェコで。

20100125WatanabePhoto2渡辺さん宅では、1955年平和友好祭のアルバムや資料が並び、昌子さんのアルバムに「『本当に短い日々だったが、今までにない深い友情で結ばれた。遠い国日本の美しい友だち』このことばを書くのはミコエル・メラノヴィッチです」と書かれたサインを指さし、「これ、私のサインです」とメラノヴィッチさん。
うたごえの歴史を紹介する書には、「原爆を許すまじ」が当時世界に広がり、この平和友好祭では7カ国語で演奏された、とある。
書や話には聞いていたが、「そうです。当時、ポーランドでもラジオで自国語の『原爆を許すまじ』が流されて、私たちはこの歌を覚えて開催地として準備していましたから、日本代表団をすでに親しみを持って迎えました」というメラノヴィッチさんのことばに、伝えられた「歴史」を確認する。 
興味深かったのは、氏の人生の転換点となった日本のうたごえ、である。
「平和のメッセージ、歌、踊り、雰囲気すべてが私を魅了した」と言う。
「その中の一人に恋心をもったんじゃないの。それ、昌子さんだったりして」と、この再会を作った「悪魔の飽食」もてがけた演出家田中暢さん。
メラノヴィッチさんが日本に来るまで、田中さんとの出会い、再会も興味深かった。
メラノヴィッチさんはポーランド・ワルシャワの東、ロシアとの国境近くのブレストで牛飼いの家の6人兄弟の長男として生まれる。
貧しい家の子が勉強を続けるには師範学校に行く道しかなく、リーベンタールの4年制の師範学校に進む。
学校はドイツがポーランドの将校のために作った修道院を改造したもので、屋根裏にはたくさんの本、外国の本、日本の本もあった。
「私にはそこはアルカディアでした」とメラノヴィッチさん。
日本、日本文学を知ったのもその時、勉強して和歌の翻訳もてがける。
3年生になると地域にでかけて芝居もするという活動もあり、文学、演劇に興味をもってゆく。

師範学校で一番の成績を収めた者はワルシャワ大学に推薦される。
メラノヴィッチさんはワルシャワ大学で東洋文学を専攻する。
最初は中国文学だった。
そして世界平和友好祭、日本代表団との出会い。
「日本のうたごえ代表団にすっかり魅せられ、日本文学を研究しようと決めました」と氏。
しかし、当時、東欧諸国は旧ソ連の支配下で、ポーランドも例えば東洋文学を留学して研究したいと思っても、それは中国に限られ、日本留学などは夢として持つこともできなかった。
が、まもなく、“ポーランドの春”が訪れて、日本留学が可能になる。 
そうさせたのは、国民の闘い、特に1950年代のポースナイン事件-ポーランドで採れる石炭がほとんどそのままソ連に運ばれることからくる国民の不満-など主に経済的理由からの国民の、ソ連の圧政、追随する政府への不満からくる闘いがよく起こっていたという。
そして世界平和友好祭で世界の目がポーランドに注がれたことは大きかったと思うとメラノヴィッチさんは言う。

1964年、ポーランドからの初の日本留学生として来日。
早稲田大学文学部で学ぶ。
その時、友人から、日本語を学ぶには学外に、劇団で学ぶのがいいと勧められる。
この友人がこれまた奇遇、日本のうたごえ祭典・合唱発表会での審査委員もお願いしている声楽家の坂本節夫さん(奈良在住)だった。
20100115Watanabe03その薦めで訪ねた劇団に田中暢さん(写真左側)がいたのだった。 
そして50年近く経って、「悪魔の飽食」をポーラントで、という話になった時、田中さんはポーランドにワルシャワ大学教授となっていたメラノヴィッチさんを訪ねる。
「飛行機がずいぶん遅れたポーランドの空港で、メラノヴィッチさんはずっと待っていてくれた」と田中さん。
再会した二人の会話から、メラノヴィッチさんの日本文学を志したルーツが話された。
ポーランド公演では日本語の字幕スーパーも引き受けたメラノヴィッチさん。
森村誠一氏の原作「悪魔の飽食」はすでに英語版でポーランドでも出ていた。
メラノヴィッチさんはしかし、原作を読み、なんともことばの奥が書き込まれていない英訳か、と氏自身の翻訳でスーパーは書かれた。
  50年前のほんの数週間の出会いが、人生の方向を決める。
そいういう話は聞くが、現実にそれを、しかも、平和への営みがつくる再会を目の当たりにして、私の心もとても豊かになった。

13日は、平和委員会代表理事の佐藤光雄さんに取材。
佐藤さんは広島の原爆で家族13人を一度に亡くし、祖母とふたり残される。
その祖母もまもなく亡くなり、一人で祖母を焼いたという話をかつて佐藤さんから広島で聞いたことがある。
お話は「原爆を許すまじ」が初めて演奏された頃のこと、一緒に4年間自治体問題研究所で活動した新江義雄(山ノ木竹志)さんのこと、そしてメインのNPT再検討会議・NYのことへ。
これは次号に紹介予定。

1月18日号 本日発送!

2010年1月8日 金曜日

昨日、校正に行った印刷所では「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」とあいさつを交わしたが、きょうはすでに1/18号が刷り上がる。

20100118kodama今号1面はニューヨークから小玉洋子さんに寄稿してもらった「NPT・NYへの現地からの声」。
関西合唱団団員で前回のNPT再検討会議の時も「とても心強かった」と高田龍治さん。
年末に、小沢事務局長を通してお願いした原稿依頼に快く応えていただき、期限通りに原稿到着。
こういう経歴だったんだ、と実は読みながら知り、うれしくなる。
そして、うーん、インターネットってすごい。
前回のNPTうたごえ代表団としてニューヨークに行った当時関西合唱団団長の吉岡勝さんが向こうに団員がいる、と連絡をとり、一緒に行動できたのだと聞く。
その時の写真に、病気になる前の吉岡さんが健闘する写真を一緒に掲載した。
吉岡さんは今、リハビリをしながら演奏をしているが、回復を節に願っている。

 3面は、埼玉のうたごえ、小山真理子さんからの年末・埼玉の“版貧困年末大相談会 連帯フェスタ”のもよう。
年越し派遣村は昨年以上に救済すべき人が増えている。
そこでうたごえは…、だが、うたごえも大きな力を発揮し、音楽で14団体が集ったフェスタ。
実践と共に紙面を充実させた大型通信に感謝。
20100118HanhinkonFesta (1)20100118HanhinkonFesta (2)

20100118Tanoue4・5面は新年号、田上長崎市長へのインタビューの後半。
8面にも関連するが、長崎の高校生平和大使・高校生一万人署名活動の話になると「彼らはここにも報告に来てくれて、友だちのよう」「このように心に平和の種のようなものが植えられることがとても大事。種が植えられると子どもたちは後は自分で育てる。種がないと花は咲かない」。
「なぜ、広島・長崎でオリンピックを、と提唱しているか」など、田上市長の深く熱い、平和、若い世代を育てる目を感じたインタビューの事をあらためて思い起こしながら、昨日は校正していた。 

 6面、“北から南からホットライン”、岩手・一関めろでぃの「久しぶりのうたごえ喫茶大盛況」の通信、文中の「会長が病気療養のため…」、応援も得て開かれたうたごえ喫茶。
その会長の訃報が届く(次号掲載)。

7面には、「広島合唱団初代団長村中好穂さんを悼む」。
広島では訃報が続くが、1995年の日本のうたごえ全国総会で、村中さんの講演を聞いた。
原爆が落とされた時から、原水爆禁止世界大会が開かれるまでの被爆者の、自分たちの苦しみを発することが許されなかった日々の話に強く心を動かされた。
1954年のビキニ水爆実験被害で、日本中に世界に、核兵器の恐ろしさが改めて伝わったが、それまでプレスコードによる被害の実態が伝えられない中での苦しみ、その中でも伝え続けた人々のことを、いつも意識しないといけないと思った。
そうした歴史の、生きた想い・声を残して逝く人たち。その声を「直に聞き、感じ、伝えることの
大切さを日々実感する」と高校生たち(8面)は語る。
この長崎の高校生たちと、高校生が発信する平和の歌を作ろう、と取り組みを始めた。
年末までにまず詞の第一稿を、と約束したことが、きちんと守られ、年末に届いた。
さあ、ここから、高校生からのメールの返信が楽しみな毎日になっている。

仕事始め。

2010年1月6日 水曜日

 年末に少しはきれいにしたうた新社で、まずはパソコンを開く。なんと98通のメール、文字通り山のような年賀状・郵便物、ありがたく読む。その一つ、北九州青い空合唱団の美濃部恒子さんからは、紙面へのうれしい感想と励まし、そして「『行ける時に行けや』と夫の一押しで、5月のニューヨーク、NPT再検討会議に行きます!」とこれまたうれしいお便り。

 大阪の三谷昇さん、「池辺・浅井・高橋新春鼎談、なぜ季刊で全文、うた新に載らないのは残念」との、これもうた新への想い、うれしい。だけどたげど、全文載せたらうた新全部を埋めてしまう。そこはそこ、私たちには紙誌という強い武器があるのです。などなど一通一通、心の中でつぶやいて目を通しているとほぼ仕事始めの一日は終わった。

 年末大掃除できれいになったうた新。例年よりきれいになった。それは、このブログをアップしてもらっているエーちゃんの存在大なり。
昨年11月から毎週金曜日を基本にブログやうた新データ整理等で「ご出勤」いただいていて、年末仕事納めの29日は、午後は大掃除そしてエーちゃんの歓迎会を込めた忘年会。
コンピュータを自在にあやつるエーちゃんの、てきぱきとした「捨てる!」の叱咤激励で、バッサバッサ。
例年より廃棄物がどっさり。よく働いてもらいました。
小沢事務局長の母堂逝去で、一人欠けた忘年会だったが、エーちゃんのリード(?)で、三次会はうたごえの店「家路」へ。何を歌ったかって? 
時代がうん十年前にスリップしたような歌のオンパレード。

 そして年越しとお正月は、腱鞘炎のため「箸より重いものを持ってはいけない」との整骨医の指示により、箸と盃しか持たなかった。
郷里岐阜は市内だが何年かぶりの大雪が大晦日から正月にかけて降り積もり、雪見酒を堪能。
心身共にリフレッシュできた。

  お正月に会った友人たちに、核兵器廃絶の署名用紙を送るから頼む、とNPT再検討会議のこと、年越し派遣村の昨年からの変化云々と話そうと思って切り出すと、あっさり「分かった。いいよ」に驚く。
「でもなにNPTって」と言う人たちだから。
しかし、そういう人も核兵器廃絶の力になるなら、と言う。
やはり、プラハ演説はじめ米オバマ大統領の影響力は大きい。
それが長い闘いを実らせていく。やはり今、チャンスなのだあらためて思った。

 長崎の高校生たち(高校生平和大使、高校生一万人署名活動)に、歌を作ろうと呼びかけている。
昨年の取材の時、そうもちかけて、原詩を年末までに書いて、と言ってきたが、届いたメールのなかに、その「原詩」があった。これもうれしい仕事始めである。